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所長のコラム

歴史ロマンがあふれる河野北前船主通り

 私の住んでいる福井県南越前町河野(旧河野村)は越前海岸の南端、敦賀湾のほぼ入口に位置します。山々が海に迫り、わずかに残された平地に密集するように家々が建っています。河野(こうの)という地名は、瀬戸内海の伊予の国「河野水軍」の流れを汲んだ中村三郎右衛門が、南北朝時代の金ケ崎の合戦で南朝方新田義貞の傘下として戦いに加わり、その後河野浦に移り住んだと伝わるところからきています。中村家は、江戸時代には河野浦の「高持」の家として庄屋役を務めるとともに、天明9年(1789年)の廻国巡見使三番御宿を、天保9年(1838年)には一番御宿を務めるほど由緒ある家柄です。江戸初期には廻船業をてがけ、江戸末期から明治にかけて、同浦の右近権左衛門家とともに日本有数の北前船主として隆盛を誇りました。
 「北前船」とは、江戸時代中期から明治の中頃にかけて、蝦夷地(北海道)を含めた日本海の港と瀬戸内海、大阪を西廻り航路で往来した不定期の廻船のことで、大阪・瀬戸内海各地から日本海方面に向かうことを「下り」、その反対を「上り」と呼び、「下り荷」は、大阪や瀬戸内海各地の酒・塩・砂糖や木綿・タバコ・紙など雑貨類、小浜や敦賀の縄・むしろ、新潟や酒田の米、「上り荷」は、蝦夷地のニシン・昆布などの海産物が中心でした。
 北前船が繁栄するはるか昔、河野村は海運の集落として越前国府の外港の役割を担っていました。国府が置かれたとされる府中(今の越前市)から西ヘ進み河野浦まで陸路で五里、海岸へ出てそこから船で敦賀まで海上七里、陸路で木の芽峠を越える北陸道は十一里の険しい山道であり、比較的容易な中山峠を越えて河野浦から海路のルートが盛んに利用されていました。また、この地域は軍事的にも重視され、戦国時代には、越前の守護朝倉氏が府中からの道を何度も改修したという記録が残っています。
 府中から西に向かう道であることから「西街道」とも、物資を馬に乗せて輸送する「馬借」が主に利用したので「馬借街道」とも呼ばれ、明治になって鉄道が建設されるまで、物資輸送の重要な役割を果たしていました。
 平成29年4月28日、右近権左衛門家と中村三郎右衛門家の北前船主集落の河野浦が、荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間「北前船寄港地・船主集落」として日本遺産に認定されました。河野浦の独特な景観と、歴史とロマンが感じられるこの地へ是非一度足を運んでみてください。

令和4年2月20日 『北陸税理士界 第640号 会員寄稿』より

25周年を迎えて

ご挨拶

平成2年6月1日に越前市村国3丁目で税理士事務所を開いて以来、早いもので今年で25年を迎えることができました。顧みますと、何の計画もなく、一件のお客様もない状態でよく独立したものだと思いますが、当時34歳という若さがなしえた行動ではないかと考えます。
最初の事務所は3LDKの賃貸マンションでした。大型会計事務所が幅を利かすこの地域において、私の存在はちっぽけなものでしたが、ご紹介いただいた仕事に対しては、常に真面目にお客様の身になって取り組んでまいりました。
当時国高地区は国道8号線が開通し車の流れが従来と大きく変化し、郊外に新しいお店が出店している時で私のような者でも必要とされる環境があったのだと感じています。
おかげさまで、ゼロからのスタートの顧問先も年を重ねるごとに増加し、それに伴って従業員の数も一人ずつ増えていきました。
平成10年8月には、現在の地に念願の自社ビルを建て、翌年にTKC全国会へ入会させていただきました。TKCの会員になったことで会計業界の一歩先行く情報がタイムリーに入ってくるようになり、所内の研修体制も充実し、更なる事務所の発展につながったと感じています。
最近は税理士会の仕事で、金沢や東京への出張が多くなり、お客様には大変ご不便をおかけいたしておりますが、これらの経験は私をさらに大きく成長させて、なんらかの形でお客様に還元できるはずだと確信しております。
開業して25年。無我夢中で走ってきた気がします。『何事にも前向きに取り組みます』『何事にも感謝します』『何事にも愚痴を言いません』の3項目を行動指針とし、しっかりとお客様と向き合いながらこれから先もお客様のよき相談相手、よきビジネスパートナーとなり得るよう更なる努力、研鑽をしてまいる所存でございます。何卒、今後とも一層のご支援、ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。

平成27年6月28日

50歳をまえにして

私がこの業界に足を踏み入れたのは、昭和56年、24歳の時である。大阪市生野区、大阪環状線寺田町駅下車、駅前の生野商店街の中に会計事務所はあった。毎朝8時に出社、先生が出勤されるまでにトイレと事務所内の掃除そして入口のガラス磨きが日課であった。先生と奥様と私の3人だけの事務所で商店街の中をチャリンコ(大阪では自転車のことをそう呼ぶ)でお客様廻りをしていた。生野税務署にもチャリンコで行った。『もうかりまっか』『ボチボチでんなあ』コテコテの2年間であった。

昭和58年4月、8年間の大阪生活にピリオドを打って、武生へ帰ってきた。鯖江の野村一榮先生の事務所に勤務させていただき、若先生の下で税理士事務所のイロハを一から教えていただいた。租税に関する知識、お客様に対する考え方、会計事務所の方向性等々、現在の私の事務所経営の基礎となる部分はすべてこの時期に教えていただいたものである。

昭和61年7月23日税理士登録をさせていただいた。当時の北陸税理士会会長は武生支部の片岡輝昭先生で金沢の税理士会館での税理士証票伝達式にガチガチになりながら臨み、片岡先生までのテーブルの距離がとてつもなく遠く感じたことを昨日のように覚えている。今、会務で税理士会館に行くが当時感じた距離感はない。いかに偉大な存在であったかということである。

野村一榮先生の事務所には7年間お世話になった。平成2年4月、お許しを得て独立させていただいた。34歳の時である。ゼロからのスタートというと聞こえはいいが、お客様のいない寂しさは経験したものでなければ分からない辛さがあると思う。事務所に1枚の額がある。初めてお金を頂いたお客様への請求書と領収書の控が大切に入っている。これが私の事務所の原点で、ここ何年かは6月1日の創立記念日に職員にこの話をすることにしている。今年で開業して丸15年がたった。無我夢中で走ってきた気がする。『何事にも前向きに取り組みます』『何事にも感謝します』『何事にも愚痴を言いません』の3項目を行動指針とし、お客様・社員・取引業者・家族・地域社会と真摯に向き合って事務所経営を営むことが私のモットーである。この8月で49歳になる。残り15年、65歳になるまでは、第一線で頑張りたいと考えている。

平成17年7月20日 『北陸税理士界 第441号 会員寄稿』より